馬也ホースレーシング

一口馬主・馳走(はせ・はしる)のブログです。シルクHC・ノルマンディーOC・DMMバヌーシーにて出資中。シルク2021年産・ターコイズフリンジ命名。競馬以外の話題はnoteにて発信中。 https://note.com/machino_sokoyori

「ライド・ライク・ア・ガール」と「ザ・ロイヤルファミリー」を立て続けに鑑賞しましたよ。

 毎週木曜日に「ウマ娘 シンデレラグレイ」の感想やら史実考察やらをつらつら垂れ流し、そんなこんなしていたら笠松町長からツイッターの方に「いいね!」をいただいたりしておりましたが今週はヤンジャンが合併号で発売ナシ。

 

 だからというわけではないのですが、ちょうど先週末から公開開始となった映画「ライド・ライク・ア・ガール」と、今更ながらですが昨年のJRA賞馬事文化賞を受賞した早見和真先生の「ザ・ロイヤルファミリー」を立て続けに鑑賞しました。それぞれノンフィクション映画とフィクションの小説という全く異なる2つの作品でしたが、いじれの作品からも感じたのは、なぜ競馬はこれほど人をひきつけてやまないかの「本質」でした。

 

 まず、今週の月曜日に「ライド・ライク・ア・ガール」を、混んでいなさそうな午前中を狙って劇場にて鑑賞してまいりました。ちなみに、ほかの作品もですが各シアターには3~4人程度しかお客さんが入っていませんでした。間違いなくコロナの影響だと思いますが、劇場の経営は本当にまずいことになっているんじゃないかと思いました。

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 「ライド・ライク・ア・ガール」の主人公は、2015年のメルボルンカップでプリンスオブペンザンスに騎乗し、女性ジョッキーとして初めてメルボルンカップウィナーとなったミシェル・ペイン騎手の半生を描いたノンフィクション作品です。主人公のミシェル・ペイン役は「ハクソー・リッジ」などに出演したテリーサ・パーマーが演じています。

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 近年、世界各国で女性騎手の数・成績共に右肩上がりではあるものの依然として男性社会の色濃い競馬界で、そもそもGⅠ競走に女性騎手が乗ることそれ自体まだまだ難しい状況。まして「Race stops the nation」と呼ばれるオーストラリア最大のレースであるメルボルンカップとあればなおさらのこと。そのレースを単勝23番人気の大番狂わせで制したのだから、それだけで十分に「奇跡の物語」と言えるでしょう。

 また、このレースの異名「Race stops the nation」が示す通り、オーストラリア国内の関心度は日本では想像もつかないほど高く、かつて日本から遠征したデルタブルースがこのレースを制したことがありましたが、これをもって、いまなおオーストラリアで一番有名な日本人アスリートがテニス全豪オープンを制したナオミ・オオサカではなく、デルタブルースに騎乗してメルボルンカップを制したヤスナリ・イワタであるのはとても象徴的です。

 

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 このメルボルンカップには日本からもフェイムゲームとホッコーブレーヴが出走。特にフェイムゲームは単勝1番人気に推されましたが13着、ホッコーブレーヴは17着に敗退しています。ちなみに、プリンスオブペンザンスの母ロイヤルサクセサーは日本で走っていました(デビュー戦2着の1戦のみで抹消)。何気に日本との縁も深い一戦でした。競馬がグローバルスポーツであることを感じますね。

 

 で、それに続く形で今更読んだのが昨年のJRA賞馬事文化賞受賞作品である早見和真先生の小説「ザ・ロイヤルファミリー」

 

ザ・ロイヤルファミリー

ザ・ロイヤルファミリー

 

  こちらは100%フィクションの小説ですが、税理士だった主人公があるきっかけでワンマン社長の馬主のマネージャーになり、そこから人馬とも親子二代にわたっての葛藤と戦いを見届けるというのが作品の大筋ですが、四六判ハードカバーで500ページ超のボリュームがありながら、購入当日には完読してしまいました。それだけのテンポ感とドラマの展開があったということです。

 

 

 これら二つの作品から共通して感じた、冒頭で述べた「競馬の本質」が何かというと、それは【魂の継承】である、ということです。分かりやすいところではサラブレッドの血脈の継承がありますが、それ以外にも、人間にも血縁関係だったりあるいは血縁になくてもイズムの継承だったりといったドラマがあり、それが競馬を競馬足らしめている、とワタクシは感じました。かつて、ワグネリアンがダービーを制した時に「これは福永家の50年にわたる大河ドラマだ」と評したことがありますが、

 

chisou-horse.hatenablog.jp

 

その時にも同じ感想を抱いた覚えがあります。

 

 両作品とも、競馬を主体としながらも、人間も徹底して描かれます。だからこそ、心を揺さぶられます。これは、馬に人間の思いや欲望あるいは夢だったりもしかしたら意地かもしれない、ある意味人間臭い感情が乗っかって走るという競馬の特性によるところが大きいと思いますが、そんな思いを背負った人馬が、ハミと鞍の発明以来3,000年以上続く原始的な方法で覇を競う様に心惹かれるのは、感情よりもむしろ、もしかしたらDNAに刻まれているかもしれない本能をくすぐるからなのかもしれません。

 

 各作品に登場する彼ら、彼女らの事情はそれぞれで、それは共感できるものだったりできなかったりはするのですが、原始的なところでどこか繋がっているという感覚と、これからも繋がっていくという感覚が、確かに自分の中の熱量を上げる実感をもたらしたのは確かです。

 もしかしたら、自分が一口馬主をやっているのも、こうやって発信の場をもって、発信をしていることも、自分の中の何かを誰にというわけでもないですが「継承」したくてやっているのではないだろうか。そんな事を考えました。もしかしたらこういうなかなか言葉にしがたい思いのことを「ホースマンシップ」と呼ぶのかもしれませんね。